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コトノハメディア135 コトノハがわかる

洗足池は、田園ユートピアと愛の町(前編)

 夢に洗足池を知り、ここに偶然住むことになった厳奈那堂は、以前、と言っても四半世紀以上前のこと、洗足池や長原、石川台に旅館があったことを覚えている。チンカラ園(※洗足池公園内にあった日本最初の有料遊園地)があったことは知っているが、TDLじゃないので宿泊施設は必要なかろう。「吉田旅館」は今はえがおの森保育園になっている長原1丁目の中原街道近くの場所に、「旅館箱根」は小池公園の傍の今はピアース上池台の場所に、「旅館麗人荘」は洗足池駅を出てすぐの中原街道沿いにあった。石川台にも「緑風荘」という旅館が90年代まであった。その頃は、旅館が点在していることになんの疑問も湧かなかった。そして知らぬ間に取り壊され、マンションに姿を変え、かつて旅館だった痕跡は消え去る。
 そもそも、住宅街である洗足池になぜ旅館が?

 その前に。秋吉久美子がトルコ嬢を演じた森田芳光監督のデビュー作『の・ようなもの』(1981年)を観たことがあるだろうか。ラストシーンで、洗足池池畔のボートハウス屋上での宴会が映し出される(と記憶している)。撮影当時この屋上にはビアガーデンがあり、夏の夕暮れにはそれは賑わっていた。森田監督は、渋谷は丸山遊郭の料亭の息子。この初監督作品のために料亭を抵当に入れ制作費を捻出している。でも、なぜ洗足池を選んだのか?

 話は敗戦後に飛ぶ。占領下の東京では米兵とパンパンは繁華街以外では、近場の行楽地に出没していた。その一つが洗足池だった。江戸時代から景勝地として知られ、茶屋が立ち、明治以降も茶屋のいくつかは待合旅館として営業を続けていた洗足池。今でいう料亭とラブホテルが合体した施設だ。米軍将校は熱海や箱根のRAA(特殊慰安施設)で日本人女性と接することができたが、一般兵は近場で済ますしかない。洗足池は都心から近く、風光明媚な佇まいが受け、熱海や箱根に行けない米兵の流行りのデートスポットになっていた。

 戦後、GHQが撤退した後に、今度は日本人の男女が密会場所とし洗足池を利用したとしても不思議ではない。薄給サラリーマンにとって、行楽地の代表格であった熱海や伊豆旅行は高嶺の花だが、池があり名所旧跡(勝海舟の寓居や西郷の碑等)がある洗足池なら気軽に寄れ、宿があるため一泊できる。新婚旅行や家族となら伊豆、愛人や恋人との一時の逢瀬なら洗足池ということになる。

 池の周辺の長原、洗足池、石川台に旅館があるのはそういうことだ。富士山に登る代わりに富士講があったよう、熱海の代わりに洗足池。ちなみに石川台には天然温泉の稲荷湯がある。完璧ではないか。
 男の憧れるお忍びの一泊二日の必要条件がこれだけ揃った場所は、他には思い浮かばない。
 「1950年代、洗足池の周りは連れ込み宿の集中地帯だった」(井上章一編『東京のエロ地理編』)

 同書では当時の連れ込み宿広告を調べ、「千駄ヶ谷26軒、渋谷22軒、新宿17軒、池袋14軒、大塚10軒、代々木9軒」、そして我らが洗足池は7軒とある。

 1958年の内外タイムスには、洗足池にあった「旅館やくも」の広告が載っている。「やくも 新館落成 休息二人三百円 宿泊二人八百円 自慢の蒸し風呂 野趣豊かな岩風呂」(同書)

 1958年は売春防止法が施行された年。赤線が非合法になり、自由恋愛という名のエロ事が巷で流行る。高度成長期に入り、洗足池は連れ込み宿が密集する「大人の隠れ家スポット」だった。
(つづく)

厳奈那堂
洗足池を望む中原街道沿いの古書の家「厳奈那堂」の主。
(『街の手帖 池上線』16号より・2015年9月末日発行)
※バックナンバーのため、現在の情報と異なる場合がございます。

街の手帖16号

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